商売の回し方
詰まるところ、当たり前のことだが、商売の回し方は以下の3つをしっかりと固めることに尽きると感じている
- つくり方
- 売り方
- さばき方
この3つを固めて仕組化できれば、商売が成り立つ。規模を負わなければ、この3つを中程度の経験で回せば、それなりの商売の形になる。
1人で成り立たすのはチームで成り立たすよりも簡単であるが、もちろんその場合は規模が期待できない。つまりは成長しない商売になる可能性がある。リビング・デッド。成長しなくても既得の権益で回していければそれでよしと考える商売方針もある。
成長を目指せばリスクを取らなければならないのだろう。成長とリスクは常に隣り合わせなのだろうか。
人の気持ち
人の気持ちを考えることは、言葉以上にエネルギーを使う作業である。
世の中で「成功している」と評される人たちで人の気持ちを考えている人がどの程度いるのだろうか。
「成功」の定義は人によりけり。。。のはずなのに、世間で言われる一義的な指標、主には経済的価値で全てが測られているようなな気がする。
それは資本主義社会だけの話だろうか。多分そうだろう。資本を持った人により自由が与えられる。それが資本主義の結果であり、蟹工船で語られる社会構造なのだと思う。
人徳のある人、人望のある人が資本を持てば、より社会的な価値観から物事が判断され、日常の生活がより「本質的な幸せ」に満たされたものになるかもしれない。
今の社会で資本が「血縁」で継承されている限り、「資本を持たない人の気持ち」を考える資本家は現れないのかもしれない。なぜなら、彼らにとって成功とは資本を持つことであり、それは生まれ持ってして得たものであるから。資本を持たない状態は「成功」とは言えず、成功していない人の気持ちを考えることなどは無いだろう。
資本を持たない人は、一代でそれを気づくための馬力と創造力を持たなければならない。それは容易なことではないが、そうして得た資本はより社会的な価値基準のもと使われていくのだと思う。
素直さ
素直でありたいと思いながら、自分が取る行動に対する他人の受け止め方ばかりを気にして素直になれない自分がいるのであれば、それは自分が求める幸せとは程遠い姿なのかもしれない
自分の幸せはお金ばかりではないと思うようにしていても、人生の中で直面する多くの選択肢に対して、経済的価値を基準に判断をしてしまうのでは、幸せを感じられるはずがない
せめて家族に対しては素直になりたいと強く心のそこから誓う一方で、家族にこそ強い自分でいたいという心の矛盾が自分の行動を歪曲する
年齢を重ねれば重ねる程、社会の曲げられた価値観に合わせる自分がいるのかもしれない
素直は必ずしも社会的地位、経済的価値とは直接には結びつかないかもしれないが、人間的暖かさやつながりを育てる大切な純水のようなものなのではないだろうか
それでも人と人が必然的にすれ違う社会であり、経済的価値が建前的な幸せの指標として解釈されている以上、素直になれず心が疲れていく人が生まれるのではないだろうか
「動き」をつくる
仕事で中々結果が出ずに悩んだりすることはないでしょうか?(恐らく、誰にでも一度はそういう時期があると思うのです)
特に結果が見えやすい経営者や営業担当者はそのような気持ちになることが多々あるのではないでしょうか。
「結果が出ないとき」にどのように対応するかは、以下二つのアプローチが考えられます。
- じっとこらえて時を待つ
- とにかく動いて状況を改善する
私は、「どうしようもない」と思うときでも、必ず「動く」ようにしています。なぜならば、1.のじっとこらえて時を待つという選択肢を選ぶにしても、それはある程度の動きを作ってからの話であり、その間に自分でできることは多々あると思うからです。
リーマンショック直後に多くの中小企業が「結果を出せない」時期にあったと思います。「どこにいっても仕事がない」という時に、経営者はどういう判断をすればよかったのでしょうか?もちろん魚のいない釣り堀で魚は釣れるはずがなく、闇雲に営業の外回りにいっても結果はでないかもしれません。
しかしながら、外部環境が好転するまで「何もしない」という選択肢は、それまで「変化」しないということであり、成長につながる変化の好機も逃している可能性があります。
結果が出ないときにでもできることを考え、動きを作っておくことが、中長期では更なる自信の成長につながるのだと思います。
営業で業績が伸び悩んだとき、そんなときは外部環境と内部環境をじっくりと見てみて、とにかく中長期に備えた「動き」をつくっておけば、その動きが何かしらの「結果」を連れてくるのだと思います。
焦る必要はなし、でも「動き」をつくっておく。それを心掛けたいと思います。
情報共有と関係の深さ
人との関係の深さは、その対象となる人に対して、どれだけ自分が有している情報を開示できるかどうかということで、ある程度わかると思います。
あなたに対して「何か隠しているな」という人は、やはりあなたのことを深くは信頼していないでしょう。
上の説が正しいとすると、ずるがしこい人は話す人を選んで、人との関係の深さを疑似的に作り出します。
例えば、相手を信用させようと思う場合、自分が持っている他人の情報の一部を提示し、相手からも重要な情報を入手します。入手した情報は、ほかの人に共有し、他の人からも重要な情報を引き出します。
この作業を繰り返して、自分が情報のハブとなることで、多くの人と疑似的な深い関係を構築するのです。しかし、これはあくまで疑似的であり「本質的」な深い関係ではありません。
なぜなら、あなたが「関係が深い」と思って信頼して話した内容は、簡単に「関係が深くない人」にも知られてしまうからです。このような疑似的な関係を作り出す人は、誰からも信用されなくなるリスクを負います。
組織の中で、少しでも「この人は信用できない」という雰囲気をつくってしまうと、風通しの良い文化を作るのは中々困難になるでしょう。
オープンイノベーションが提唱される昨今、色々なところから情報を入手して、創発活動を行うことは、企業や技術の発展につながる良いことだと言われていますが、「信用できる人に情報を共有する」という人間的な心理がある以上、それなりに限界があるのではないでしょうか。
企業や技術を発展させていく上でも、「信頼される」という本質的なことが、何よりも大事なのではないでしょうか。その場合、オープンとクローズドのバランスを大事にしていくことが期待されるのです。