裏切るよりも裏切られる方がまし
裏切られる可能性を常に肯定して人との関係を築く
信じるからこそ、裏切られた場合の衝撃は大きくなるが、裏切られる可能性を肯定していた場合の衝撃は些細なものだろう
人と人、人とモノ、人と概念の間で常にパワーの不均等が生じるなかで、自分を取り巻く多面的な影響因子に対して、すべて正の反応を起こすのは容易なことではない
皆、全方位360度からかかる力のバランスに応えながらも立ち続けるために、力を入れる方位を限定するはずだ
その際、力を入れない方位はからは「裏切り」と解釈されることもあるのかもしれない
「裏切り」の定義が「期待に応えないこと」であるならば、万人が万物に対していつでも裏切りをせざるを得ない可能性があることを肯定するほうが自然である
自分は裏切るような人間ではないと信じる者もいるはずだ。だが、矛盾があふれる社会において全ての期待にこたえることはできない
また「裏切られる可能性を肯定する」ことは、「他人に対して期待をしないこと」であり、その思想が、事を成すために人に頼らず自身を発展させるトリガーにもなるはずだ
そしてなによりも、「期待しないこと」で、期待が外れた場合を想定したときに行うべき考えや行動についての準備ができる
その準備は自分を守ることになる
深く考えることはない
わかりやすくいえば、割り切りの上で最悪の状況も想定しながら、ことをすすめることだ
大事な人がいるなら、大切にするべきだ
ただ、大切にすることと、大切にしてもらえることは必ずしも併存するわけではなく、そこには期待の差異があって然るべき、という現実を受け止めておくのが肝要だ
言葉の限界
「希望する仕事に就きたい」、「プロジェクトで結果を出したい」、「金メダルを取りたい」。同じ言葉で表現をしても、人によってその重み、本気度は違う。
本気度は言葉だけでは現れない。本質を追求すれば、最後は行動で示すしかない。目標達成のために実際に「何をしたのか」を深く語れなければ、質のある成長は伴わない。
新しいことにチャレンジする、結果が出るまで継続する、多くの障壁に柔軟に対応する、予定調和に順じない。言葉でいうのは簡単であるが、そのために「いかに考え、いかに行動するか」が最後の目標を実現するための本質である。
言葉で人を動かすのは限界がある。あとは、行動を変えていくしかない。今、マネジメントに問われるのは「まず自分がやること」。
生産性のジレンマ
「生産性」は「少ないインプットで大きなアウトプットを出すこと」と定義されることがある。しかし、そこで考えてほしい。「生産性」の値を最大化することが目的になると、人生においてはそれが必ずしも喜ばしい結果につながることではないということを。
生産性を求める式の分子に「アウトプットの量」を置いてしまうと、生産性の尺度から「アウトプットの質」が無視されるリスクがある。しかし、「アウトプットの量」ではなく、「質」を明らかにしていくことが、人生におけるどのような取り組みにおいても、本当は必要とされているのではないだろうか。
そして、「質」を高めていく過程においては、往々にして「量」が求められてくるというジレンマがある。「量質転換」という量が、あるK点を超えて質に転換するという原理を信望するのであれば、量で定義される「生産性の値」よりも「アウトプットの質」を求める人生を送ることを、個人としては肯定したい。
生産性を追求する組織はリーンな体質かもしれない。もちろん無駄をなくすことに越したことはないが、生産性を追求することにより、多少なりとも質の追求が犠牲にされるのであれば、それは最終的に満足するものではないかもしれない。イノベーションを実現する組織も「質」を生むための相当のインプットをしているはずだ。そう考えると、「生産性」が注目されているその背景は、結局のところ求めていないアウトプットに対してインプットをしている人が多いということではないのだろうか。
求めていないアウトプットに対するインプットを徹底的に削減するために、生産性を追求するのであれば、それこそ無意味である。求めていないのであれば、すぐにでもインプット自体を止めてしまえばいい。
求めているアウトプットに対するインプットであれば、量を気にせず求めるものが得られるまでインプットを増やすことは、ある程度の覚悟が必要であると思う。量をこなせば質に変わるはずだ。
「本当に求められていること」、「自分が実現したいこと」といったアウトプットの質に重点を置く人であれば、そのための投資は相当に行う覚悟があるはずだ。
「生産性」を考える際には是非、「質」を意識したい。
※ 最近話題の「生産性」に関する本
中間管理職の価値
上の真意を捉え、下を鼓舞して組織を方向付ける、、、中間管理職の価値は組織において絶大であるという印象。
日本ハムファイターズの栗山監督の日経インタビュー記事には共感できることが書いてあった。
自分より有能な人をつかって(動かして)、どのようにしてフロントやファンの期待に応える組織を作るか。
指針をもって私心を持たず。人としての成長を大事にされている姿に感動。
頑張ろう。中間管理職。
商売の回し方
詰まるところ、当たり前のことだが、商売の回し方は以下の3つをしっかりと固めることに尽きると感じている
- つくり方
- 売り方
- さばき方
この3つを固めて仕組化できれば、商売が成り立つ。規模を負わなければ、この3つを中程度の経験で回せば、それなりの商売の形になる。
1人で成り立たすのはチームで成り立たすよりも簡単であるが、もちろんその場合は規模が期待できない。つまりは成長しない商売になる可能性がある。リビング・デッド。成長しなくても既得の権益で回していければそれでよしと考える商売方針もある。
成長を目指せばリスクを取らなければならないのだろう。成長とリスクは常に隣り合わせなのだろうか。
人の気持ち
人の気持ちを考えることは、言葉以上にエネルギーを使う作業である。
世の中で「成功している」と評される人たちで人の気持ちを考えている人がどの程度いるのだろうか。
「成功」の定義は人によりけり。。。のはずなのに、世間で言われる一義的な指標、主には経済的価値で全てが測られているようなな気がする。
それは資本主義社会だけの話だろうか。多分そうだろう。資本を持った人により自由が与えられる。それが資本主義の結果であり、蟹工船で語られる社会構造なのだと思う。
人徳のある人、人望のある人が資本を持てば、より社会的な価値観から物事が判断され、日常の生活がより「本質的な幸せ」に満たされたものになるかもしれない。
今の社会で資本が「血縁」で継承されている限り、「資本を持たない人の気持ち」を考える資本家は現れないのかもしれない。なぜなら、彼らにとって成功とは資本を持つことであり、それは生まれ持ってして得たものであるから。資本を持たない状態は「成功」とは言えず、成功していない人の気持ちを考えることなどは無いだろう。
資本を持たない人は、一代でそれを気づくための馬力と創造力を持たなければならない。それは容易なことではないが、そうして得た資本はより社会的な価値基準のもと使われていくのだと思う。